朝まで討論
1.日本ではなぜ学校で糞をするとバカにされるのか
2.ウォシュレットで本当に脱糞生活は豊かになるのか 3.尻を拭くときの腕は股のインサイドかアウトサイドか 4.アポロチョコのモデルは一体何なのか 5.なぜ駅のトイレにはHな落書きが多いのか NEW1.日本ではなぜ学校で糞をすると
バカにされるのか
はっしー >
先日見たTV番組で、男の子がトイレで大便をするとバカにされることがとりあげられていました。…日本だけなんですね。日本は脱糞教育が遅れているので、糞臭大学も力を入れなくてはなりません。JSD >
なんと、もう20年以上も大がバカにされる時代が続いているのですか。糞臭大学でも幼稚園からの一貫教育体制を確立して、幼児からの脱糞教育を目指すべきかも知れませんね。武臨 >
日本の糞事情についてだが、私の意見は違う。日本で「学校で糞」がバカにされるというのはむしろ糞に対する意識の高さを物語っているのだ。外人は糞は単なる排泄物と考えている。だから学校で糞をしようが家でしようが関係ないのだ。ところが日本人はそれにはとどまらず糞を愛すべきものとして捉えているのである。『学校で糞』をバカにするのは、小学生のガキが好きな子をわざといじめるようなものである。すなわち、『学校で糞をバカにする』という行為は、学校で糞をした奴を讃える気持ちの屈折した表現なのである。
こう言ったことから考えると初等教育の段階ですでに日本人の糞意識は相当高められていると言えよう。すなわち、来るべき糞世紀の担い手は日本しかないのである。糞るい起て、日本人!今こそ糞の力を世界に示すときである!
ばん >
いやいや。私の意見は股股違います。日本では学校ウンチはバカにされ、海外ではオーケー。それは、海外のウンチの価値観が高いからなのです。なぜかというと、海外の学校のトイレのドアは、意外にオープンで、外から覗ける。したがって、とぐろ自慢やにおい自慢が繰り広げられているのです。また、彼らはそれを楽しんでいます。逆に日本の場合は、妙に密室化されているから、外側の連中は中の人のクソが異常に気になるし、中の人も自分のクソは大したことないのかもしれない…などとあれこれ考えます。そうこうしているうちに、誰も出来なくなってしまったのです。即ち、トイレに関する設備の問題が2次的に引き起こした現象と言えると思います。
JSD >
武臨教授のご意見も、ばん氏のご意見も説得力がありますが、私の意見は股股股異なります。我々の遺伝子には、古代の糞に対する畏敬の念と、糞こそが全ての根源であるという記憶が刻み込まれています。我々は、この記憶によって、無意識のうちに脱糞を神聖かつ新たなものを生み出す行為、すなわちものごとの始まりの象徴としてとらえているのです。したがって、これを馬鹿にする、という行為は、新たなものを始めようとする人、目立つ人をひきずりおろそうという行為に他なりません。残念ながら、日本人独特の「出る糞は打つ」という悪しき風習が、子供の世界にも反映され、思春期における健全な糞観の形成を阻害しているのです。海外では、先駆者に対する適正な評価が存在するために、このような問題は生じません。
要するに、学校で脱糞することを馬鹿にするという行為は、日本の社会の体質を変えない限りなくならないでしょう。ですから、幼児期からの脱糞教育を重視し、日本の体質改善を図ることが急務であると考えます。
はっしー >
そもそも、脱糞行為というものは、食物から栄養を吸収して、その吸収の感謝のしるしにきちんとした便器に糞を送り届けることです。もちろん、学校の便器でもちゃんとした便器です。よって、学校の脱糞行為も神聖な行事と言えます。これを馬鹿にする行為というのは、宗教の礼拝を妨げるのと同様、非常に無礼な行為です。ただ、外部から神聖な行為をしていることがわかると、自分もうらやましくなったり、また、している本人も「自分だけ抜け駆けでやっていいのだろうか?」という後ろめたさを感じてしまうことも、また事実なのです。よって、後ろめたさを取り去り、またむやみな嫉妬をさせないような、脱糞教育をする必要があると思います。
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以下朝まで続く(略)。
2.ウォシュレットで本当に
脱糞生活は豊かになるのか
ばん >
先日、久々にウォシュレットにて排便。しかし、この進化したはずの便器に思わぬ落とし穴を発見しました。ウォシュレットは、確かに快適。だが、水を放出する勢いで、トイレ内のウンチ、ウンコ、糞が拡散されてしまい、その全体像がおぼろげになる。これは、快便後のもう一つの楽しみである「鑑賞」を著しく害するのであります!
排便後には、その色形、香りをたしなむのが流儀であり作法。機器の進化が機能追求のあまりに文化を犠牲にしているといった弊害を招いていることにいささかの不安を感じるのは私だけなのでしょうか?
JSD >
ばん氏のご指摘は鋭いものがあると思いますが、私の考えは少し違います。もともと、和式便器においては、汲み取り式のものが多く、「鑑賞」には多大の苦労を強いられたものでした。それが、水洗トイレの普及により、より多くの人が容易に糞を鑑賞できるようになったのです。これは、文明の進化が文化の普及を助長した少数例と言えるでしょう。
ところが、ご指摘のように、ウォシュレットの普及により、鑑賞が妨げられるという事態が生じるようになりました。しかし、ここで発想を転換して下さい。鑑賞してからウォシュレットを使用すればいいのです。機器文明の進化が文化の進展を阻害するのであれば、新しい文化を我々の手で作るべきです。
尻にウンコをつけたまま、自分の糞を鑑賞する…それもまたオツなものであるとは思いませんか?
社長 >
鑑賞にも2種類あると思います。1つは糞そのものの鑑賞、そしてもう1つは尻を拭いた紙の鑑賞です。この両方とも阻害するウォシュレットなんぞはもってのほか。普通の洋式トイレも、糞が水中に沈むため糞そのものの十分な鑑賞は不可能です。
私の意見としては、和式水洗トイレこそが便器の理想の形です。溜まりに溜まった和式汲み取りトイレでも可です。
ばん >
拭いた紙は拭き具合、力の込め具合で斬新なアーティカルな作品を作れるということですね。ということは、たまには利き腕でない手で拭くと斬新なビジュアルが鑑賞できますね。大事な事を見落としていました。それと、幾人ものオブジェが競演した、満杯和式くみ取り。懐かしいです。もはや、あのオーケストラのような感激は味わえないのでしょうか?
社長 >
懐かしいと言えば、私も大事な事を忘れていました。鑑賞に最高なのは、便器の原点である野グソでした。ばん >
ええ、まさに「野グソ」こそ、やはり自然との一体感、そして即肥料になるというエネルギー転換、さらには、尻を拭くにもその辺の草葉を使うエコロ感覚という3徳を持っていますからね。JSD >
社長のご意見は、糞鑑賞の真理をついておりますが、私は新しい鑑賞方法を提案いたします。まず、水中に沈んだ糞についてですが、世に水中花というものがあります。花は直接鑑賞しても美しいし、水中花にしても美しい。これは、糞にもあてはまるのではないでしょうか。美しい水中糞を鑑賞するためには、水に負けない丈夫な糞を生成する必要がありますが、このことは、丈夫な糞を生成するためにどのような食事をとろうか、など新たな楽しみを生み出すのです。
尻を拭いた紙については、残念ながら旧来の正統的な鑑賞方法は失われるといわざるを得ません。しかし、これについても、いかに紙を溶けさせずに拭取るか、などという求道的な楽しみを提供します。また、あたかも絞り染めのごとくうっすらとにじむ糞には、水墨画的ななんとも言えぬ趣があるものです。
あくまで正統的な糞鑑賞に適合するのは、やはり和式水洗トイレや野グソですが、ウォシュレットはこれに匹敵する器具であると言えるでしょう。
ばん >
和式便器が純粋な鑑賞、即ち自然の造形美を楽しむ趣向であるのに対し、洋式の水没ウンコは前衛的なアートであるということですね。そして、それぞれのオブジェに適した糞を生成することが、古来より聞く「異食糞源」、色々な糞はそれぞれ異なった食より創り出される、といったことなのですね。うんこ姫 >
ちょっと待って下さい。ウォシュレットは肛門を洗うためだけのものではないと思います。例えば、便秘のときは簡易浣腸として使用できます。ウォシュレットの用途について皆さんもっと調査すべきです。はっしー >
姫の言うとおりです。私も以前、うっかり肛門を全開させたまま使用してしまったことがあります。すると、水が直腸を刺激して、水下痢のように排出してしまいました。決して気持ちのいいものではありませんでしたが、直腸の掃除ができ、ある意味、すっきりでした。あれは、やろうと思ったら顔も洗えて便利な気がします。JSD >
確かに腸の掃除にはもってこいですし、簡易浣腸としても使えますな。私もいつもそのような使い方をしております。しかし、最も有効な使い方は、冷水と熱水を交互に切り替えて繰り返し肛門にぶつけることで、いかなる硬便、下痢便にも負けないよう、肛門を鍛えることだと思います。社長 >
いや、鍛えるなら縄でしょう。:
以下朝まで続く(略)。
股のインサイドかアウトサイドか
うんこ姫 >
引っ越しをしてみました。新居のトイレは便座から立ち上がるとオートマティックに水が流れてしまうので、今朝せっかく糞柱がたったのに「まあ」と思った瞬間にじゃーっと流れてゆき切なかったです。それ以外の住み心地はよいです。社長 >
立つと流れるって、尻を拭くときはどうするんですか。たとえウォシュレットだったとしても、拭かない訳にはいかないでしょう。うんこ姫 >
え―――――――――――――っ。社長はお尻拭くとき、立つんですか。紙がたいへん遠くに設置されているとか、立たなければならないほど豪快うんちが出るとかでしょうか。社長 >
男はアウトサイドから拭きに行くので、立つというか腰を浮かす必要があると思いますが。もしかして私だけでしょうか?はっしー >
私は思いっきり股を広げて拭くインサイド派なので、腰は浮きませんね。なぜなら、立ってしまうと尻が締まって、うんこが肛門に残っているときに周りに広がってしまう恐れがあると思っているからです。社長 >
座ったままのインサイドでは、便器の縁や底に手が当たのではないですか。あと、手に残尿がかかる心配もあるでしょう。JSD >
私もインサイドですな。幼少時は、実家が和式便器だったこともあってアウトサイドでしたが。確かに便器の底に手を当てて鳥肌がたったことがあります。しかし、残尿は注意すればかかりませんよ。インサイドは、尻の形状に沿って拭くので安心感があります。アウトサイドでは、手の角度が尻と直角に近くなるのでどうしても指先の感覚に頼りがちです。下手すると指がトレぺを突き破って…。
うんこ姫 >
わたしはアウトサイド派です。保健体育の授業のとき、女子はそうしなさいって先生がいいました。うっかり二次汚染したとしても、病気にならないで済むかららしいです。さっき携帯で聞いてみましたが、ふみのり(注:うんこ姫の夫)もアウトサイド派だそうです。そう言えばふみのりは昔、「うんちのときは洋式でも便座の上にうんこ座りしてする」と言っていた気がします。
社長 >
まあ、ふみのり氏のような人の意見は参考になりませんが、あなたがアウトサイド派だとすると「立つのは変」という最初の発言と矛盾しませんか?うーん、尻を片側だけ浮かせばいいのかな。うんこ姫 >
別に普通に座ったままで拭けます。拭けるんです。社長 >
じゃあやって見せてくれ!(10分中断)
ばん >
私はインサイドです。やっぱり、外側より内側の方がなんでも器用にこなせるし、そして、大切な作業を任せられるという安心感もあります。さらに「手前に引く」という動作は、西洋人とは違い、筋力の弱い日本人にもうってつけの方法でもあると思います。西洋の鋸は押して切るように出来ているが、日本のモノは引いて切るように出来ていることがその証拠です。はっしー >
和式の時にインサイドで拭く人はあまりお目にかかれませんね。ただし、洋式の時におけるインサイドの効用は多々あります。まず、この討論の原点である「立つ必要性」がないこと。次に、肩を回す角度がアウトサイドより少ないので、肩に負担がかからないこと。最後に、拭いた紙を振りまわすことなく、短時間に見られること。JSD >
なるほど。最近、日本のスポーツ界も特定の分野においては世界と十分わたりあえるようになってきましたが、これは洋式便器の普及によるインサイド派の増加が一因なのではないでしょうか。アウトサイドで拭くと、どうしても多少無理な体勢にならざるを得ず、それが繰り返されるために日本人の体はひずみがちであったと思うのです。それが、インサイドから拭くようになったおかげで、体のひずみが生じにくくなったために、体格、体形がよくなり、それが特にスポーツにおいて優秀な人材を輩出する一因となっていると思います。また、姿勢が自然なため、緊張によって萎縮しないような心を形成していくのではないかとも考えられます。
社長 >
うーん、逆に言うと、和式便所ではアウトサイド派が圧倒的に多いことから、元々日本人はアウトサイドから拭くことで忍耐と貞淑を育んできたと思われます。インサイド、すなわち尻の拭き方の西洋化による、スポーツ分野への貢献は否定できませんが、それとともに精神まで西洋化してしまったような気がします。最近の少年の凶悪犯罪は、尻の拭き方の西洋化が原因であると思えてなりません。:
以下朝まで続く(略)。
4.アポロチョコのモデルは
一体何なのか
ばん >
アポロチョコのモデルは、昔アメリカが打ち上げたロケット、アポロ号であると言われていますが、実際は似ても似つかない形をしています。私は、あれは絶対血便がモデルだと思います。JSD >
うーん、確かに血便に見えますが、下血による血便というよりは痔主の便であるように見えます。アポロチョコは表面がぎざぎざしています。これはウンコの表面のしわをデフォルメしたものと思いますが、これにねじれがないところをみると、肛門括約筋を締めていないものと推測されます。さらに、ウンコ上部にだけほんのりと薄く血がにじんでいる状況などから考えますと、これは痔によって肛門に負担をかけぬよう配慮しながら脱糞した時の便がモデルなのではないでしょうか。社長 >
いや、それは少し違うでしょう。だんだん細くなった先端に血が付いていることから、硬い便にもかかわらず括約筋を絞ったがために、糞は何とか切れたが、尻も切れたという状況だと思います。また、アポロという名前はロケットの名前からではなく、前述のような状況で尻が切れた時の悲鳴と糞が落下する音… 「あ!」ポロッ… から来ていることは間違いありません。JSD >
社長のご意見は十分な説得力を持っていますね。思わず納得しかけてしまいました。しかし、一点だけ疑問があります。それは、肛門が切れるほどの堅い便が円錐形をなすのか、という点です。アポロチョコはとぐろをモデルとしたとも仮定できますが、とぐろをまくためには、ある程度の軟性が必要なのではないでしょうか。逆に言えば、肛門を切るほどの高度を持つ便は、通常は棒状になると思うのです。この疑問が解決されれば、社長の仮説を定説とすることに異論はありませんが…。社長 >
アポロチョコの底面は平らになっています。このような形は自然にはできません。そう、棒状の糞の末端を切断した形なのです。糞は不純物が少ないほど利用価値が高いので、血などの付いた部分は業者によって切り捨てられることが多いのです。アポロ開発者はこの切り捨て部分をたまたま見て、チョコのモデルにしたと思われます。JSD >
なるほど、底面が平らになっているのはそのような理由があったのですね。まさに目からうんこの思いです。これで納得することができました。もしかしたら、「糞切りがつく」という言葉の語源は、ここから来ているのかもしれませんね。貴重な糞を剪定するのには相当の決心が必要なはずですから。:
以下朝まで続く(略)。
5. なぜ駅のトイレには
Hな落書きが多いのか
JSD >
ふと思ったんですが、駅のトイレってなんで落書きが多いんでしょうね。公衆便所なんかにも落書きがあることはありますが、駅便って、ダントツで多くないですか、落書きが。それも脱糞にはまったく関係ない卑猥なやつが多いですよね。実に不思議です。社長 >
駅便というのは一刻を争うところです。そこで、最新発明と同じ理由から、ワクワクする必要がある訳です。脱糞とは関係ないように見えますが、落書き者はあれを書きながらワクワクして脱糞を促進させている訳です。ちなみに、電車内の痴漢の3割は、直前に落書きをしてムラムラしたのが原因と言われています。ばん >
話はもっと単純で、肛門より創造されるのが糞なわけで、創造こそ、括約筋を刺激するのである!JSD >
なるほど、社長のおっしゃるように、興奮等により便意が増進されることや、ばん氏のおっしゃるように、創造が括約筋を刺激することはうなずけますが、そもそも駅便に入る段階で既に便意は一刻を争うほどに高まっているのではないか、と私は考えます。誰しも、電車の時間を気にしながら汚い駅便に入るのは嫌なもの。しかし、便意には抗えずやむを得ず入る、というのが駅便の特性なのではないでしょうか。仮に駅便に入った時点で便意が十分に高まっていたとするならば、あらためてわくわくする必要はないわけです。また、電車の時間もあることだし、極力短時間で切り上げることを皆考えるでしょう。であれば、落書きなどせずに、脱糞に集中する方が合理的であると考えられます。
なのに、なぜ落書きが多いのか。私は、電車の時間を気にしながら汚い個室で急いで脱糞することによるストレスがその主原因であると思います。ぎりぎりまで高まった便意が肛門を刺激することによって創造意欲が刺激され、悪環境によるストレスがその創造意欲を爆発的に噴出させるのではないでしょうか。
社長 >
うぐっ、便意を駆り立てる必要がないというのはもっともな意見ですな。しかし何故卑猥なのかという問題が残っています。また、あれらの落書き群は到底創造と呼べるものではありません。まるで全く理性を失った状態で書かれたようです。そこで新たな仮説を提示します。脱糞というのはある意味、人間の本能の行為です。溜まりに溜まった糞を急激に放出するとき、人間は本能に強く支配され、理性のエアポケットとも言うべき状態になります。このため、日頃理性で抑圧されている卑猥な考えが噴出し、壁に刻まれます。多くの場合、無意識のうちに!
皆さんも、駅便から出るときに落書きが増えているような気がした経験はないでしょうか?
ふみのり >
男子、根性の糞便を脱する時、苦痛を超越した快楽を味わう。その刹那、自我の奥底に伏くする同性愛欲が、男根を欲し、欲求は筆先へと繋がる。男子便所に男根の落書きが多いことも頷けよう。JSD >
う〜む、なるほど、脱糞が本能的行為である点、脱糞が快楽である点は、確かにその通りであると思います。そして、それらの点を引き金として理性の空白状態が生じることもあるかもしれません。理性の隙間に本能的な性衝動が噴出しても不思議ではありませんね。しかし、家庭のトイレでは理性の空白が訪れることはありません。仮に一時的理性喪失説が正しいとするならば、脱糞自体の持つ本能性、快楽性の他にも、何らかの要因が存在するものと推測されます。駅便が家庭のトイレと異なるところは、不特定多数の人が常に出入りしていること、多くの場合時間的な制約があること、そして、壁の上下に空間があることが多く完全な密室ではないこと、などが挙げられます。ということは、要するに駅便では落ち着いて脱糞することができない、ということですね。今にもノックされるのではないか、電車には間に合うのか、壁の上下空間からのぞかれるのではないか…等々、不安を抱えながら脱糞しなければなりません。脱糞時は無防備になりますので、このような不安が生じることにより、防衛本能が働くのではないでしょうか。
しかし、脱糞中は現実的な防衛体制をとることが不可能ですので、その反動として無意識のうちに攻撃的になり、それが性衝動に形を変えて表面にあらわれてくるのかもしれません。駅便には、確かに男性器の落書きが結構多いと思いますが、それは同性愛欲の噴出というよりは、防衛本能の裏返しとしての攻撃的本能の象徴のようなものなのではないでしょうか。
ふみのり >
私が幼い頃に住んでいた家のトイレは、扉に鍵が付いておらず、扉から、縦長に約一畳ほどの和式便所でした。つまり、脱糞時は扉に背中、そして尻を向けてしゃがむという体勢でした。そこでは駅便と同様、落ち着いて脱糞することは出来ません。誰かがノックを忘れて入ってきたら、さぞかし間抜けな姿をさらす事となるでしょう。そのせいかもしれません。私は、排便中の自分のうんちを指に少し塗り、トイレの壁に茶色い落書きを書いていました。主にパーマン2号を書いていた事を覚えています。母にはかなりこっぴどく怒られました。幼い私にとって、攻撃本能=強さの象徴=パーマン2号だったのでしょう。
社長 >
ふみのり氏は昔から脱糞に関して非常識だったんですね。:
以下朝まで続く(略)。
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